体験した本人から、私自身が数年前に聞いた話である。記憶違いの部分もあるかもしれないが、大体次のような内容だ。
――それは、蒸し暑い初夏の土曜日のこと。彼は当時つきあっていた彼女のマンションに遊びに来ていた。
遠くから雷鳴が響き、雨が降り注ぐ陰鬱な天気の昼下がりだった。
彼は一足先にシャワーを浴びて、パンツ一丁でくつろいでいた。
彼女がシャワーを浴びているとき、ドアチャイムが鳴った。
「宅急便です……」と、くぐもった声。
浴室からは「代わりにハンコ押しといてー」と彼女。
後で彼女に俺のハンコ押しまくってやるぜ、とかいうやりとりがあったかどうかは知らないが、とにかく彼は玄関へ行った。
パンツ一丁のままだが、なに、かまうものか、ちょっくらちょいとハンコ押すだけだし。
そして彼は玄関のドアを開けた。
そこには、宅急便の配達人はおらず、
彼の奥さんが立っていた。
――少なくとも、彼が離婚届にハンコを押したという話は、聞かない。